顧客や取引先からの理不尽な暴言や過剰な要求に、従業員が一人で耐える時代は終わりを告げようとしています。
2025年6月に成立した改正労働施策総合推進法により、カスタマーハラスメント(カスハラ)対策が、従業員1人以上を雇用するすべての企業の法的義務となりました。
施行日は2026年10月1日。残された準備期間は約9ヶ月です。
対応を怠れば企業名の公表というペナルティが待ち、従業員の安全配慮義務違反として損害賠償リスクも生じます。
本記事では、企業の労務問題に精通する弁護士の視点から、カスハラ対策義務化の全貌と、企業が今すぐ取り組むべき実務対応について徹底解説します。
カスハラ対策が義務化へ?改正の背景と目的
まず、今回の労働施策総合推進法改正の背景と目的について、解説していきます。
東京都で先行していたカスハラ防止条例
カスハラ対策の法制化は、東京都の先駆的な取り組みから始まりました。
東京都は2024年10月4日、全国初となる「東京都カスタマー・ハラスメント防止条例」を可決・成立させ、2025年4月1日に施行しています。
同条例は、「何人も、あらゆる場において、カスタマーハラスメントを行ってはならない」(第4条)と明確にカスハラを禁止し、都、顧客等、就業者、事業者それぞれの責務を定めています。
罰則規定はないものの、カスハラが違法である旨を条例上明記したことで、社会的な抑止力が期待されています。
この東京都の条例制定が国レベルでの法整備を後押しする形となり、2025年6月の改正労働施策総合推進法成立へとつながりました。
増加するカスハラの被害
厚生労働省が実施した「令和2年度職場のハラスメントに関する実態調査」によれば、深刻な実態が明らかになっています。
- 【企業調査の結果】 過去3年間に顧客等からの著しい迷惑行為の相談があった企業の割合:19.5%
- 【労働者調査の結果】 過去3年間に勤務先で顧客等からの著しい迷惑行為を一度以上経験した労働者の割合:15.0%
さらに同調査では、カスハラによる心身への深刻な影響も報告されています:
- 「怒りや不満、不安などを感じた」:67.6%
- 「仕事に対する意欲が減退した」:46.2%
- 「何度も繰り返し経験した」労働者では「眠れなくなった」:21.2%、「通院したり服薬をした」:8.8%
出典:厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」(2022年2月) 14ページ
これらのデータが示すように、カスハラは従業員の心身の健康を害し、離職の原因となるなど、企業経営にも重大な影響を及ぼしています。
企業としての責任という考え方
弁護士として企業の労務相談を受ける中で、多くの企業が「お客様は神様」という旧来の価値観から脱却できずにいる実態を目の当たりにしてきました。
しかし、法的な観点から見れば、企業には従業員に対する安全配慮義務(労働契約法第5条)が存在します。
労働契約法第5条は、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と規定しています。
この安全配慮義務には、物理的な安全だけでなく、精神的な健康を守ることも含まれます。
カスハラから従業員を守る適切な措置を講じない場合、企業は安全配慮義務違反として損害賠償責任を負うリスクがあるのです。
今回の法改正は、このような企業の責任を明確化し、すべての企業に対してカスハラ対策を義務付けることで、従業員の就業環境を守ることを目的としています。
カスハラとは?基本をおさらい
そもそもカスハラとは何か、なんとなくのイメージがあるが法的な位置づけや定義があいまいな人は基本からおさらいしていきましょう。
カスハラの定義
厚生労働省の「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」では、カスハラを以下のように定義しています:
「顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・言動の要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・態様が社会通念上不相当なものであって、当該手段・態様により、労働者の就業環境が害されるもの」
この定義から明らかなように、すべてのクレームがカスハラに該当するわけではありません。
商品やサービスの改善を求める正当なクレームと、不当・悪質なクレームとを明確に区別することが重要です。
出典:厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」
カスハラの3要素
2025年12月に厚生労働省が公表した「職場におけるカスタマーハラスメントに関して雇用管理上講ずべき措置等に関する指針(素案)」では、カスハラを以下の3要素すべてを満たすものとして整理しています。
| 要素 | 内容 | 具体例 |
|---|---|---|
| ①顧客等の言動の要求内容の妥当性 | 要求内容の合理性、正当性→客観的に判断 | 店舗での対面、電話、SNS・メール等を含む |
| ②①の要求を実現するための手段・態様の社会通念上の相当性 | 要求内容と言動の手段態様とが、社会通念上、合理的な均衡がある | 暴行、脅迫、長時間拘束、過剰な要求等 |
| ③就業環境が害される | 労働者が就業する上で看過できない程度の支障→実害発生までは要することなく、実害が発生する程度のものと客観的に認められること | 精神的苦痛、業務への支障(休退職を含む)、他の社員への波及、健康被害等 |
なお、注意すべきは、障害者からの合理的配慮の要求や、正当な申入れはカスハラに該当しないという点です。
障害者差別解消法に基づく合理的配慮の提供義務は別途遵守する必要があります。
出典:厚生労働省「職場におけるカスタマーハラスメントに関して雇用管理上講ずべき措置等に関する指針の素案」(2025年11月)
カスハラの主なパターン・類型
カスハラに該当するものには、特に上記ポイント②の手段相当性の観点から、以下の8つのパターン・類型があるものとされています。
| 類型 | 具体例 |
|---|---|
| 時間拘束型 | 長時間の居座り、長時間の電話、同じ内容の繰り返し |
| リピート型 | 何度も同じ要求を繰り返す、複数の窓口に同じクレーム |
| 暴言・威圧型 | 大声で怒鳴る、机を叩く、睨みつける、人格否定発言 |
| 暴力型 | 殴る・蹴る、物を投げる、唾を吐く |
| 脅迫・恐喝 | 「SNSで拡散する」「訴える」「本社に乗り込む」 |
| 過剰要求 | 土下座要求、無償提供要求、金品要求 |
| セクハラ | 性的な言動、容姿への言及、身体への接触 |
| SNS/誹謗中傷 | SNSでの名誉毀損、プライバシー侵害情報の掲載 |
参照:前掲カスタマーハラスメント対策企業マニュアル
実務上重要なのは、これらの行為が刑法犯に該当する可能性があるという点です。
暴行罪(刑法第208条)、脅迫罪(刑法第222条)、強要罪(刑法第223条)、名誉毀損罪(刑法第230条)、侮辱罪(刑法第231条)など、カスハラ行為の多くは刑事責任を問われ得ます。
改正法によるカスハラ対策の「義務化」とは?
2025年6月4日に成立した改正労働施策総合推進法により、カスハラ対策はすべての事業主の義務となりました。
【重要ポイント】
- 施行日:2026年10月1日(予定)
- 対象:従業員1人以上のすべての事業主
- 違反時の措置:厚生労働大臣による助言・指導・勧告、企業名の公表
労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等
事業主の方針等の明確化及びその周知・啓発
企業がまず行うべきは、カスハラに対する明確な基本方針を策定し、全従業員に周知することです。
これは単なる形式的な文書作成ではなく、「この会社はカスハラを許さない」という経営トップの強い意志を示すものでなければなりません。
基本方針には、カスハラを一切許容しない旨の宣言、カスハラ行為者に対しては毅然とした対応を取る旨の明示、従業員の安全と健康を最優先する姿勢の表明が含まれるべきです。
抽象的な文言だけでなく、自社の業態に即した具体的なカスハラ行為の例を列挙することも重要です。
たとえば小売業であれば、「レジ担当者に対する暴言」「土下座の要求」「商品を投げつける行為」といった具体例を示すことで、従業員がカスハラを認識しやすくなります。
同時に、「商品の不具合に対する返品・交換要求は正当なクレームであり、カスハラには該当しない」といった説明も加えることで、従業員が過度に萎縮することを防げます。
周知方法としては、就業規則への明記が最も重要です。
常時10人以上の従業員を使用する事業場では、就業規則を作成し労働基準監督署に届け出る義務がありますので(労働基準法第89条)、カスハラに関する規定を追加した場合は変更届の提出が必要です。
就業規則への規定例としては、次のような条文が考えられます。
「会社は、従業員が顧客等からのカスタマーハラスメントにより、就業環境を害されることのないよう、必要な措置を講じる。カスタマーハラスメントとは、顧客、取引先等の言動であって、業務の性質その他の事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えたものにより、従業員の就業環境が害されるものをいう」
就業規則への記載に加えて、社内イントラネットへの掲載、全従業員向けのメール配信、朝礼やミーティングでの説明、社内掲示板へのポスター掲示、新入社員研修での説明など、多様な手段を組み合わせて周知を徹底します。
特にパートやアルバイトといった非正規雇用の従業員にも確実に情報が届くよう配慮が必要です。
相談と適切な対応のための必要な体制整備
企業は、従業員が安心して相談できる窓口を設置し、適切に機能させる体制を構築する必要があります。
相談窓口の設置方法には、次のようなものが考えられます。
| 経営管理部(人事部・総務部) | 社内の一次相談窓口 |
|---|---|
| 法務・コンプライアンス部 | 法務対応窓口、対外的な対応も見据えた位置づけ |
| 弁護士や社労士 | 外部窓口 |
中小企業の場合、社内に専門的な知識を持った担当者を配置することが難しいケースも多いため、顧問社労士や弁護士に外部窓口を依頼することが現実的です。
一方、大企業では内部窓口と外部窓口の両方を設置し、従業員が相談しやすい方を選択できるようにすることが望ましいでしょう。
相談窓口の情報は、連絡先、受付時間、相談方法(電話、メール、面談等)を明示して、全従業員に周知します。
重要なのは、匿名での相談も可能であること、相談したことによる不利益取扱いは一切ないことを明確に伝えることです。
従業員が「相談したら評価が下がるのではないか」「異動させられるのではないか」といった不安を抱くことなく相談できる環境を整える必要があります。
相談を受けた際は、5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)に沿って詳細に記録を取ります。
この記録は、後に会社として対応を検討する際の重要な資料となるだけでなく、万が一訴訟に発展した場合の証拠としても機能します。記録は個人情報保護に配慮しながら、適切に保管します。
カスハラが起きた場合の対応体制
カスハラが発生した際、企業は迅速かつ適切に対応する義務があります。
まず行うべきは事実関係の確認です。被害を受けた従業員から丁寧にヒアリングを行い、何が起きたのかを正確に把握します。
可能であれば目撃者からも話を聞き、録音や録画のデータがあればそれも確認します。
こうして得られた情報を時系列に整理することで、客観的な事実関係が明らかになります。
事実関係が確認できたら、被害者への配慮を行います。
具体的には、該当する顧客への対応担当者を変更する、一時的に配置転換や休暇を付与する、産業医やカウンセラーとの面談を手配する、メンタルヘルス不調の兆候がある場合は休職制度を案内するといった措置が考えられます。
並行して、カスハラ行為者への対応も検討します。
初回であれば口頭または書面での警告を行い、「このような行為は当社では受け入れられません。今後も続く場合は、サービスの提供をお断りすることがあります」と明確に伝えます。
警告にもかかわらず行為が継続する場合は、サービス提供の停止や出入り禁止措置を取ります。
暴力や脅迫など悪質な場合は、躊躇せず警察に通報し、必要に応じて弁護士に相談して法的措置を検討します。
カスハラ事案が一段落したら、再発防止策の実施に取り組みます。
発生原因を分析し、企業側のサービス品質や説明不足に問題がなかったかを検証します。問題があれば業務プロセスを見直し、対応マニュアルを更新します。
また、発生した事案を(個人情報に配慮しながら)従業員に情報共有することで、同様の事態に直面した際の参考としてもらうことができます。
その他カスハラ対応に際して講ずべき措置
上記3つの措置に加え、企業はプライバシー保護、不利益取扱いの禁止、他のハラスメント対策との一体的実施といった措置も講じる必要があります。
プライバシー保護については、相談者や行為者の個人情報を厳格に管理し、相談記録の閲覧を必要最小限の担当者に制限し、社内での情報漏洩を防止する体制を整えます。
不利益取扱いの禁止は、法律上も明確に要請されている事項です。
カスハラの相談をしたことを理由として、降格、減給、配置転換、解雇といった不利益な取扱いを行うことは禁止されています。
この点を就業規則に明記するとともに、管理職にも徹底的に教育する必要があります。
他のハラスメント対策との一体的実施については、パワハラやセクハラの相談窓口とカスハラの相談窓口を統合することも考えられます。
従業員にとっては、「ハラスメント全般についてここに相談すればよい」という分かりやすさがメリットとなります。
主な業種別カスハラ対策の実務対応ポイント
カスハラにも、業種業態によって実情が異なります。
そこで、主な業種別にカスハラ対策の実務対応ポイントを解説していきます。
小売業
小売業では、レジ待ち時間への執拗なクレーム、値引きや返品・返金の強要、店員の接客態度への過剰な叱責、万引き疑惑をかけられたことへの逆ギレといったカスハラが頻発しています。
実務対応として最も有効なのは、防犯カメラの設置と活用です。
レジ周辺や店内に防犯カメラを設置し、店舗入口等に「防犯カメラ作動中」と掲示することで、証拠保全と抑止効果の両方が期待できます。
実際にカスハラが発生した際、録画データがあれば事実関係の確認が容易になり、場合によっては警察への証拠提出にも使えます。
名札対策も重要です。従来のフルネーム表示からニックネームや名字のみの表示に変更することが近時多く見受けられます。
このような施策により、SNSでの個人特定リスクを軽減できます。実際、店員の個人名をSNSで晒して誹謗中傷を行うケースが増えており、名札の表示方法を見直す企業が増えています。
現場での対応としては、従業員を1人で対応させない原則を徹底します。
カスハラが疑われる状況になったら、速やかに店長や責任者にエスカレーションし、複数名で対応する体制を整えます。
飲食業
飲食業では、料理への異物混入クレーム(中には自作自演のケースも)、酔った客による暴言やセクハラ、予約キャンセル料への執拗な抗議、提供時間への過剰なクレームといった事案が典型的です。
厨房カメラの設置は、異物混入クレームへの有効な対抗手段となります。
調理過程を録画しておくことで、「異物が混入していた」という主張に対して、「調理過程では異物の混入はなかった」と客観的に証明できます。
酒類提供時のルールも明確化しておくべきです。
泥酔している客に対しては、これ以上の酒類提供を拒否できる権限を従業員に与えます。
また、暴力やセクハラの危険がある場合に備えて、従業員が安全に避難できる動線を確保しておくことも重要です。
予約に関しては、キャンセルポリシーを予約時に明確に説明し、可能であれば書面やメールで確認を取っておくことをお勧めします。
後から「そんな説明は聞いていない」と言われることを防げます。
コールセンター
コールセンターは、カスハラの被害が最も深刻な業種の一つです。
1時間以上の電話拘束、オペレーターへの人格否定発言、「上司を出せ」の連続要求、性的な言動といった事案が日常的に発生しています。
全通話録音の徹底は、コールセンターにおけるカスハラ対策の基本です。
通話開始時に「この通話は品質向上のため録音されています」とアナウンスすることで、法的にも問題なく録音でき、同時に抑止効果も期待できます。
実際、録音されていると知ると、態度を改める顧客も少なくありません。
暴言への対応基準も明確化しておきます。
たとえば「暴言が3回あった時点で警告し、それでも続く場合は通話を終了する」といったルールをマニュアルに記載し、オペレーターに判断権限を与えることで、オペレーターの精神的負担を軽減できます。
医療・介護・保育
医療・介護・保育の分野では、診察や処置の待ち時間への激昂、治療結果への理不尽なクレーム、入院患者や入所者の家族からの過剰要求、保育内容への過度な介入といったカスハラが見られます。
この分野の特徴は、患者・利用者・保護者に一定の「権利」が認められる一方で、従事者の安全も守らなければならないという、バランスの難しさにあります。
たとえば、患者には適切な医療を受ける権利があり、保護者には子どもの保育状況を知る権利がありますが、それが暴言や暴力を正当化する理由にはなりません。
事前説明の徹底が予防策として有効です。診察や処置には待ち時間が発生する可能性があることを待合室に掲示する、治療方針については丁寧にインフォームドコンセントを行うといった対応により、「説明がなかった」というクレームを減らせます。
現場での対応としては、看護師や介護士、保育士を1人で対応させない原則を徹底します。
クレームやトラブルが発生したら、速やかに医師や施設長、園長にエスカレーションし、組織として対応する体制を整えます。
関係機関との連携も重要です。警察の医療安全相談窓口、顧問弁護士、医師会や看護協会、保育協会といった外部機関との日頃からの連携により、いざという時に迅速に相談できる体制を構築しておきます。
交通
タクシー、バス、鉄道といった交通業界では、運転手への暴言や暴力、酔った客による嘔吐や車内の汚損、遅延への過剰なクレーム、運賃トラブルといった事案が典型的です。
車内カメラやドライブレコーダーの設置は、証拠保全と抑止効果の両面で有効です。
「車内録画中」というステッカーを目立つ位置に掲示することで、カスハラ行為を思いとどまらせる効果が期待できます。
緊急時の通報体制も整備すべきです。運転手が危険を感じた際に、ボタン一つで本部や警察に連絡できる仕組みや、GPSによる位置情報の把握により、迅速な支援を可能にします。
乗車拒否の基準も明確化しておきます。道路運送法第13条は、泥酔者や不潔な服装の者等については運送を拒絶できると定めています。
この法的根拠を従業員に周知し、危険な客に対しては毅然と乗車を断る権限を与えることが重要です。
弁護士として特に強調したいのは、タクシー運転手への暴行事件は決して「よくあること」として済ませてはならないという点です。
これは刑法犯であり、警察への通報と厳正な対処が必要です。
想定される実務対応のポイント
具体的に、カスハラ対策として想定される実務対応について、対応のポイントを解説していきます。
社内の対応マニュアル
企業がカスハラ対策を実効的に機能させるためには、実務的な対応マニュアルの整備が不可欠です。
マニュアルは、現場の従業員が「今、目の前で起きているこの状況にどう対応すればいいのか」を迷わず判断できる内容でなければなりません。
マニュアルには、まずカスハラの定義と具体例を記載します。
ここで重要なのは、自社の業態に即した具体的な例を挙げることです。
一般論として「暴言はカスハラです」と書くだけでなく、「レジでの会計時に『お前は使えないな』『バカか』といった人格否定発言をされた場合」といった具体的な場面を想定した記載が効果的です。
次に、対応フローチャートを示します。
カスハラが疑われる状況が発生したら、まず安全確保(従業員の身の安全を最優先し、暴力の恐れがあれば即座に退避)、次に複数名対応(1人で対応させず、上司や同僚を呼ぶ)、そして事実確認(何が起きたかを冷静にヒアリングし、可能であれば録音・録画を開始)、判断(正当なクレームかカスハラかを見極める)、対応実施(状況に応じて警告、サービス停止、警察通報等)、事後対応(被害者のケア、記録作成、再発防止策の検討)という流れを明確に示します。

対応時のNG行為も明記します。たとえば、従業員1人での対応、感情的な反論、安易な謝罪や約束といった行為は避けるべきです。
特に安易な謝罪は、企業側に落ち度がなくても、「謝ったということは非を認めたのだ」と解釈されるリスクがあります。
記録の方法も具体的に示します。いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように(5W1H)を記録すること、録音や録画がある場合はそのデータを保管すること、記録は速やかに上司や人事部に報告することといった手順を明確化します。
エスカレーション体制
カスハラ対応において、エスカレーション体制の構築は極めて重要です。
現場の従業員が「自分だけで抱え込まず、適切なタイミングで上位者に引き継ぐ」ことができる仕組みが必要です。
エスカレーション基準を明確化することをお勧めします。
たとえば、通常のクレームであれば現場担当者が対応し、口調が強くなったり同じ内容を繰り返したりする場合は現場責任者にエスカレーションし、暴言や長時間拘束が始まったら店長や部門長が対応し、暴力や脅迫に発展したら本社や弁護士が関与して警察通報を検討する、といった段階的な対応を定めます。
弁護士として、暴力や脅迫といった刑法犯に該当する行為については、躊躇なく警察に通報すべきだと強調します。
「お客様だから」「大事にしたくないから」という理由で刑事事件化を避けることは、被害を受けた従業員に対する安全配慮義務違反となる可能性があります。
就業規則への明記
カスハラ対策を就業規則に明記することは、法的義務を果たす上で不可欠です。
就業規則は、労働条件や職場のルールを定める企業の根本規範であり、ここにカスハラ対策を明記することで、企業の本気度が従業員に伝わります。
就業規則には、カスハラの定義、カスハラに該当する具体的行為の列挙、従業員がカスハラを受けた場合の報告義務、相談窓口の設置、会社が講じる措置の内容、相談したことによる不利益取扱いの禁止といった事項を盛り込みます。
常時10人以上の従業員を使用する事業場では、就業規則を作成し労働基準監督署に届け出る義務があります(労働基準法第89条)。
カスハラに関する規定を追加した場合は、変更届の提出が必要です。
対応記録や保管と外部連携
カスハラ対応において、適切な記録と保管、そして外部機関との連携は、法的リスク管理の観点から極めて重要です。
記録には、日時と場所、相手方の氏名や連絡先(判明している場合)、被害を受けた従業員の氏名といった基本情報に加えて、発生した事象の詳細、相手方の言動をできるだけ正確に、従業員の対応内容を記載します。
さらに、録音・録画データ、目撃者の証言、写真(物的損害がある場合)、メールやSNS投稿といった証拠も併せて保管します。
対応内容として、とった措置(警告、警察通報等)、被害者へのケア、今後の方針も記録に残します。
保管期間は、通常の記録であれば労働基準法の時効に準じて3年間、訴訟リスクがある事案については民法の消滅時効期間を考慮して5年から10年程度が目安となります。
外部連携先としては、警察、弁護士、労働基準監督署、産業医やカウンセラーといった機関が考えられます。
特に暴行、傷害、脅迫、強要、器物損壊といった刑法犯に該当する可能性がある事案では、速やかに警察に通報し、録音・録画データ等の証拠を確保することを強く推奨します。
カスハラへの対応における注意点
上記で紹介してきたようなカスハラ対応に取り組んでいく上で、いくつかの注意点があります。
ここでは3つご紹介していきます。
判断基準とトラブルシューティングのあり方
カスハラか正当なクレームかの判断は、実務上最も難しい問題の一つです。
弁護士として企業の相談を受ける際、「これはカスハラと判断していいのでしょうか」という質問を頻繁に受けます。
判断のためには、3つのステップを踏むことをお勧めします。
第一に要求内容の妥当性を確認します。商品やサービスに不具合があったか、企業側の過失や落ち度があったか、要求内容は法的に正当かを検討します。
第二に実現手段・態様の相当性を確認します。要求の伝え方は冷静で合理的か、暴言、脅迫、威圧的態度はないか、拘束時間は常識的な範囲かをチェックします。
第三に就業環境への影響を確認します。従業員が精神的苦痛を感じているか、通常業務に支障が出ているか、他の顧客への影響はあるかを見ます。

具体例で考えてみましょう。商品不良で冷静に返金要求をするケースは、要求も手段も妥当であり、正当なクレームです。
一方、商品不良があったとしても、補修や謝罪を申し述べたことに加えて、「土下座して詫びろ」などと要求するケースは、要求内容自体は正当な部分があるとしても土下座を強要することは手段が不相当であり強要罪にも該当しうる態様であることから、カスハラに該当します。
また、企業側に過失がないにもかかわらず、1時間にわたって感情的に説教を続けるケースや対応者の言葉尻を責めて対応の不当を主張することなどは、要求も不当で手段も不相当であり、明確にカスハラです。
判断に迷うグレーゾーンのケースでは、まずは相手の主張を最後まで傾聴し、主張の根拠となる事実を確認します。
その場で判断せず、「確認してご回答します」と一旦保留し、1人で決めずに上司や同僚と相談します。
それでも判断が難しい場合は、弁護士や社労士といった専門家の意見を求めることをお勧めします。
弁護士の視点から、判断に迷う場合の第一原則は「従業員の安全を優先する」ことです。
グレーゾーンで迷った場合は、従業員を守る方向で判断することが、安全配慮義務の観点からも適切です。
録音や録画の取扱い
録音や録画は、カスハラの証拠として極めて有効ですが、法的な取扱いには注意が必要です。
店舗や施設内での録画については、事業者が自己の管理する施設内で録画することは原則として適法です。
ただし、「録画中」の掲示をすることが望ましく、更衣室やトイレといったプライベート空間での録画は避けるべきです。
電話の録音については、通話開始時に「この通話は品質向上のため録音されています」といったアナウンスをすれば適法です。無断録音は違法となるリスクがあります。
従業員が個人的に行う録音については、自己防衛のための録音は原則として適法とされています。
ただし、会社として正式な証拠とするには、設置場所、態様(録音時間や録音機器の態様など)によっては限界がありますので、会社としての録音体制を整えることが重要です。
店舗入口等には、「お客様へのお知らせ:当店では、お客様と従業員の安全確保のため、店内の様子を録画・録音しております。予めご了承ください」といった掲示を行うことをお勧めします。
録音・録画データの保管については、厳格なアクセス制限を設け、個人情報保護法を遵守し、カスハラ事案以外での目的外使用を禁止し、一定期間経過後は削除する(ただしカスハラ事案については長期保存)というルールを定めます。
弁護士からの助言として、録音・録画は後の法的措置(民事訴訟、刑事告訴)において決定的な証拠となり得ます。
ただし、プライバシー侵害とならないよう、適切な告知と管理が不可欠です。
警察などへの通報やレピュテーションリスク
カスハラへの対応において、警察への通報と企業レピュテーションのバランスは難しい問題です。
「警察を呼ぶなんて」とSNS等で批判されるリスクを恐れる企業も多いのですが、適切な場合には躊躇なく通報すべきだと考えます。
警察への通報が必要なケースとしては、暴行・傷害(殴る、蹴る、物を投げる等)、脅迫・恐喝(「殺すぞ」「SNSで拡散するぞ」等)、器物損壊(商品や設備の故意の破壊)、威力業務妨害(大声で怒鳴り続け、他の顧客の迷惑になる行為)、不退去(退去要求に応じず居座り続ける)が挙げられます。
これらは刑法犯に該当し、企業には被害届提出の権利があります。むしろ、通報しないことで従業員の安全配慮義務違反となるリスクが高いといえます。
レピュテーションリスクへの対応としては、事前の方針公表が有効です。
「当社は、従業員への暴力・脅迫等の行為に対しては、警察への通報を含め、毅然とした対応を取ります」といった方針を事前に公表しておくことで、いざという時の対応がスムーズになります。
万が一、警察通報を行った後にSNS等で批判された場合は、事実関係を正確に公表し(個人情報には配慮)、従業員保護の必要性を説明し、法的措置を取った理由を丁寧に説明することが重要です。
近年の傾向として、むしろ「カスハラに毅然と対応する企業」として評価される傾向にあります。従業員を守る姿勢は、求人においてもプラスに働きます。
「この会社は従業員を大切にしてくれる」というメッセージが伝わることで、採用力の向上や離職率の低下にもつながります。
改正法施行に向けたロードマップイメージ
2026年10月1日の施行まで残り約9ヶ月となりました。企業が取り組むべきスケジュールイメージは次のとおりです。

企業規模によって重点ポイントは異なります。
小規模企業(30名未満)は、外部窓口の活用と簡易マニュアルで最小限の体制を構築することが現実的です。
中規模企業(30名から300名)は、内部窓口と外部専門家を組み合わせ、詳細なマニュアルを整備します。
大規模企業(300名以上)は、専任担当者を配置し、システム化を進め、全社的な研修体制を構築することが求められます。
まとめ
カスタマーハラスメント対策の義務化は、2026年10月1日という具体的な施行日が迫る中、すべての企業が対応を迫られる重要な法改正です。
弁護士として、この法改正の本質は「従業員保護は企業の法的義務である」という点を明確化したことにあると考えます。
労働契約法第5条が定める安全配慮義務として、企業は従業員をカスハラから守る法的責任を負っています。
適切な対応を怠れば、損害賠償責任を問われるリスクがあります。
また、改正法に違反した場合、企業名の公表というペナルティもあります。
今すぐ始めるべきアクションは3つあります。
第一に、経営層への報告と承認取得です。本記事を参考に、経営層にカスハラ対策の必要性と法的義務を説明してください。
第二に、現状の把握です。過去のクレーム事例を分析し、自社の課題を明確化します。
第三に、専門家への相談です。弁護士や社会保険労務士に相談し、具体的な対応計画を策定します。
カスハラ対策は、従業員を守るだけでなく、企業の持続的な成長にもつながります。
「従業員を大切にする企業」という評価は、採用力の向上、離職率の低下、顧客からの信頼獲得にもつながります。
施行まで残り約9ヶ月。今日から準備を始めましょう。

















